非公開:Lady-Madeに物思う

Alicia Keys

はじめまして。『知る・楽しむ』初投稿のWeb Yと申します。1年間の育児休暇を終え、この春より職場復帰いたしました。ハイボールよりハイリキ。IKEAより島忠。Twitterより新宿ゴールデン街の呑み屋のカウンターでつぶやく。今時分だいぶ希少な存在になりつつある私の「はぐれデジタル道」にお付き合いいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。今回は、Lady-Madeに物思うわけであります。

さて、私が職場復帰した、とある麗らかな春の日は、はからずも「ALICIA’S KEYS」の発売前日でありました。Alicia keysと言えば、麗しき歌姫。この歌姫の「Lady-Made」なサウンドを軸に、どのような「オリジナル」が産み出されるのでしょうか?

先ほど、歌姫にかけて「Lady-Made」という言葉を用いましたが、「Ready-Made」の本来の綴りは「Ready」。少しばかり、芸術のお話をさせてください。

マルセル・デュシャン「泉」

この「Ready-Made(既製品)」という言葉は、芸術上の概念において、1950年代後半から1960年代に起こったネオダダという美術運動で活躍したアメリカの美術家、マルセル・デュシャンにより発信されました。それ以前、「芸術品は技術の高い人が作り出す精巧な一点もの」と考えられてきましたが、彼が既製品を作品にそのまま用いること(男性用便器にサインをしただけの作品はあまりにも有名)で、それまでの芸術に対する人々の概念が打ち砕かれ、表現の自由がより広がったと言えます。

写真でも絵でも歌でも、なかなかオリジナルでは勝負できないと言われるこのご時世。泉谷しげるに「今の若者はテェ?ヘンだね。今の世の中は色んな音や技法があふれてやがって、ストレートにギター抱えて唄うんじゃ、かなわねーんだから。」と言わしめた、このご時世。大量生産され、既製品となったオリジナル(この場合、Alicia keysのサウンドですが)を用いて、いかに己の一点ものを産み出すかがKEYになるようです。

ゲバラ

そんなことをうつうつと考えている最中、東京都写真美術館にて開催されている「森村泰昌 なにものかへのレクイエム」を見る機会に恵まれました。森村さんは名画や著名人に扮した写真作品で世界的に活躍するアーティスト。

「似たい、いや似せたい」という模倣への強い執着。この熱い思いは、時に「既存の一点もの」を越え、障子の向こう側まで、ズズズイっと突き抜けてしまう。腹の底でニヤリと笑みを浮かべ(かどうかわかりませんが、そうであっていただきたい)「孤高の一点もの」になりすました作者の恍惚としたエキセントリックな横顔。

これすなわち必見です。