続々メルドー

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皆様、そろそろこの話題も飽きてきたとは思いますが、今回も書かせていただきます。前回はメルドーの音楽全体に対する哲学を紹介させていただきましたが、今回もそのつながりでさらに奥深い思想の部分までも突っ込んでお話したいと思います。諸外国ではすでに多くの賞賛を得ているメルドーですが、日本ではそれほどと言った感じでしょう。ここでさらに掘り下げてご紹介することで、メルドーに目を向けていただきたいと思います!

■ メルドーのアルバム

メルドーは去年ケヴィン・ヘイズというピアニストと「Modern Music」というピアノ・デュオのアルバムを出しました。また、ごく最近にも「Ode」というピアノトリオのアルバムをリリースしています。

「Modern Music」はすごくいいアルバムです。今まで様々なアーティストによるジャズのピアノ・デュオが出されてきましたが、メルドーのアルバムはやはりひと味違う!ジャズというか、クラシックというか、メルドーらしい旋律がいたるところでちりばめられていて、メルドーを好きな方には良いアルバムであると思います。その中でも「Unrequited」「Elegia」「Excerpt from String Quartet #5」が素晴らしい。これらのアルバムには荒涼とした寂しさの中にも、時折激しいパトスが含まれていて、今までのメルドーらしさと現在のメルドーが一体化したような感じがあります。

「Ode」というアルバムは、全曲メルドー作曲のジャズ一辺倒のトリオ・アルバムです。私はどちらかというと、ジャズっぽいジャズがあまり好きな方ではないのですが、このアルバムの中で気に入っているのが、このアルバムの題名ともなっているOdeという曲です。演奏ジャンルはジャズに属するのですが、この曲はそこにメルドーでしかありえないようなテイストが入っています。スタートの和音が心地よく体に入っていって、それが次第に展開していくに従い、独立した旋律が交互に折り重なっていく。従来のメルドーのプレイスタイルがさらに進化して凝縮したという感じでしょうか。数年前に行われた演奏のビデオがありますので、聞いてみてください。

8:14くらいからをご覧ください。このころ曲名は違っていたようですが、Odeの曲となっています

18:00くらいから25:00までのソロをご覧ください。メルドーのソロはいつも素晴らしいです。原曲から全く違う世界が創造されています

以前の記事でもお話しましたが、メルドーの音楽の核心は、その感傷性と形式性とその破壊だと言えるでしょう。それでは、メルドーのこの感傷性はどのような考えから来ているのでしょうか。随分昔になりますが、アルバム「Elegiac Cycle」の頃の以下のインタビューをご覧ください。

6:52あたりから
ソロコンサートは本当に緊張感のある張り詰めたもので、本当に疲れてしまうよ(笑)。特に新しいアルバムである「Elegy」ではね。これはすべて僕自身の作曲によるものだし、ソロコンサートは時間の経過の中で行われ、時間が経過しているのを大きな緊張感の中で感じながら演奏しなければならない。休みなく、ぶっ通しで演奏して、その時間の中で生と死を体験する。

Elegy(哀歌、悲歌)は僕にとってパラドックス(逆説)の可能性を秘めたものだ。人は嘆くときに、過去において過ぎ去ったものに対して嘆く。だが、それと同時に過去にあったことを賞賛しもする。Elegyは我々が死すべき運命にあることを表現することに大きく関係していると僕は思う。これは常に、アート(芸術)は僕らが死すべき運命にあるという事実を受け止めると同じようなことだ。そして、僕にとって音楽はその本性上、elegiac(哀歌的)なものだ。人は音楽を演奏していると、時間の流れの中で演奏している。これを体験するのに、ライブパフォーマンスほど良いものはないだろう。聴衆であれ、演奏者であれ、アートが創造されている最中に、現実に時間が過ぎ去っていくのを実際に感じ取ることができる。

別れを告げる上で一番つらいのは、自分自身から別れなければならないということだと思う。自分の人生の中でもうまくいかなくなったものに対してね。若い頃からつい最近になるまで、僕は「自己破滅型」の人間だった。若い頃の自分には楽しいこともあったし、いろんな経験もすることができた。でも、ある時点でそれがうまくいかなくなり、悲しく、惨めなものになった。それに別れを告げる際、僕は自分の人生の中でそういった部分が失われることを嘆き悲しんだ。それを単純に捨てることができなかった。それを捨てることができず、またそれに別れを告げていないと、それがどうったものなのか、そして、自分の人生の中でうまくいかなくなったもの、そして楽しかったこと、わくわくしたこと、そして美しかったものを認めることになる。これは単純に人に関係することである必要はなくてもいい。僕は親しい人を亡くした経験があり、つらい思いをした。でも、そこでは自分自身をそこから解放し、成長していかなければならない。

ここで語られている音楽における時間性は、ロマン主義的な思想に大きく影響されたものと言えるでしょう。この時間性への意識こそがロマン主義的であると言えます。フィヒテやシェリングが理論化しようとした時間性における認識論的なパラドックス、すなわち、A→B→C→D……といった時間の流れにおいて、Aを把握しようとすると、すでにBに時間が過ぎ去ってしまう。そしてBを把握しようとすると、すでにCになっているなどなど、時間の流れの一瞬を捉えることは絶対に不可能であるという考え方があります。これはすでに思考実験としてしか思われないような認識論の枠組み内でのパラドックスのように思われますが、このような現象はすでに音楽の本性を言い表していると言えるでしょう。

音楽が創造されている瞬間、瞬間を捉えようとするが、そう思った瞬間にはすでに取りこぼしている。存在論的には意味がなくなってしまうような認識論的なパラドックスがそこにはある。瞬間、つまりアクチュアリティを常に追い求めようとすること自体がすでにロマン主義的であるということも逆説的には言えることであると思います。カントが「物自体」として定式化した問題圏がすでにロマン主義の中で時間性の内部の論理として息づいていると言えるでしょう。

メルドーの音楽はこうした思想的な背景をベースにした創造の瞬間を常に大切にする音楽であると考えることは間違いではないでしょう。クラシックではなく、ジャズという即興を選択した理由がそこにあります。ジャズは即興であるが故に、音楽が創造される瞬間は無意識的なものと意識的なものが常に混在する瞬間であり、人は過去に創造された瞬間へ戻り反芻することで感動にいたる。だが、完璧な即興(フリージャズ)や完璧な形式からの逸脱に対してはノーと答える。なぜなら彼の音楽の本性がすでに時間性に基づいたものであり、意味のある瞬間、瞬間が彼にとっての音楽の根本であるからです。

現代性=無形式=自由=アクチュアリティと定式化する考え方は非常に流行した古い考え方ですが、これはあくまでも反抗のための反抗とでしか存在理由がないものと考えることも無理ではないでしょう。メルドーにとってのアクチュアリティとは、形式化からの意識的、無意識的な逸脱、形式が壊れる瞬間を表現していくことであると言えます。体制への反抗、形式への反抗が自由の原義であり、一旦自由が成就された時点での自由への讃歌は、単純なプロパガンダに陥ってしまう傾向があります。

また、メルドーの音楽はファウストのような飽食型の音楽で、あらゆる音楽を自分のものにしています。それだけでなく、自分の音楽の中心へ引き寄せ、そこに新たな独自の法則、星座を形成するのです。

その一例といっては何ですが、最近のメルドーの面白い活動を見てみましょう。ドラムと電子楽器のデュオという組み合わせですが、これがかっこいい!メルドーとしては電子楽器でアルバムを制作したのは、私の知る限り「Largo」のみですが、今後このデュオでアルバムを作って欲しいと願ってやまないところです!しかし、このドラマーはすごいですね!

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