ロマン主義とメルドー

kont4icon

前回、シューマンの室内楽についてお話しすると予告しましたが、突然このことについて話しておきたいと思いました。とかくクラシック音楽、ロマン主義はお蔵入りしてしまう傾向にあるかと思いますが、それをどこまで現代に引き寄せることができるかというのが私のテーマでもあります。今回はその中でロマン主義とブラッド・メルドーについてお話ししたいと考えています。いつも独りよがりの音楽論を展開している訳ですが、今回もお付き合いください!

まずは、ブラッド・メルドーをご紹介しておきましょう。彼は現代のジャズ・ピアニストの中で最も注目されている一人です。ですが、彼を単なるジャズというジャンルだけでくくると、彼の本質を見誤ることになります。

彼は幼少期からクラシック音楽の教育を受け、青年時代はジャズよりはロックを主に聞いていたようです。彼はレディオヘッドを好んで聞き、「Exit music」「Knives out」などを自分のレパートリーとして演奏し、また夭折の天才ニック・ドレイクの「Riverman」を好んで長年にわたり演奏し続けています。彼の音楽はまさにジャンルを超えた音楽であり、しかも異なる音楽ジャンルの単なる折衷的な音楽にはなりません。メルドーはそこから彼自身のオリジナリティを展開できる非常に希有な存在なのです。

数年前に、メルドーは、クラシック・ソプラノ歌手のルネ・フレミングと共演で、全曲メルドーの作曲による歌曲アルバムをリリースしたこともあります(Love Sublime)。また、現在はソプラノ歌手のアンネ・ゾフィー・フォン・オッターともしばしば共演しているようです。その他、フランスやドイツのオーケストラとも共演したこともあります。

彼の代表作は何と言っても「Elegiac Cycle」です。このアルバムの中で展開されているのはジャズというよりはまさにドイツ・ロマン主義の音楽の影響を色濃く受けた音楽です。クラシック音楽の影響を受けているとはいえ、キース・ジャレットがバッハの「平均律クラヴィーア」をそのまま演奏したり、ジャック・ルーシェがバッハの音楽をスタンダードなジャズで演奏するのとは違います。彼はクラシック音楽、特にロマン派の音楽を解体し、そのエッセンスを自分の音楽の中に深く根付かせ、即興の中で完全に自分自身の語法として展開することができるのです。

「Elegiac Cycle」では、第一曲「Bard」からスタートして、同曲「The Bard returns」で締めくくり、全曲にわたりある一定の主題をもとに変奏を繰り広げるというスタイルを取っています。まさにアルバム名通りのサイクルを形成しています。その音楽の中には、非常に柔らかな響きから、感情を激しく表現するもの(特に「Memory’s tricks」の中盤部分のソロ)まで、曲によって表情が非常に様々です。このアルバムを聞いたら、これはもはやジャズではないと思われることでしょう。

この中で私が特に好きなのは、「Goodbye Storyteller」です。初めは穏やかな曲調からスタートするのですが、次第に抑えられていた感情が徐々にあらわになり、激しく何かを追い求めていくような曲になっていきます。メルドーのロマンティシズムが顕著に表現されている曲といえるでしょう。また、このアルバムの中で重要な一曲は「Resignation」です。アルバムの中で二曲目に位置するこの曲は、流れるような曲でメルドーの特徴をよく表しています。実際に演奏しているソロの動画トリオ版を聴いてみていただければと思います。特にソロの動画では、彼が即興でいかに曲を紡ぎ上げていくかが分かると思います。非常に独創的なソロで、左手の低音部がソロとして主張してきていて、複雑なハーモニーを作り上げています。

このアルバムだけでなく、全てのアルバムが即興演奏により演奏されていて、全体的な構想はおおまかに設定するとはいえ、ほとんど何も決めずに演奏しているという事実を考えると驚きです。彼がいかに天才であるかが分かるでしょう。即興演奏の歴史は古く、バッハ、ベートーヴェン、シューベルトなどの大作曲家たちは全て即興演奏を得意としていたと聞きます。彼らの作曲は全てこうした即興演奏の中から生まれたといって過言ではないでしょう。

ピアニストのフリードリッヒ・グルダは、おそらくクラシックの型にはまった形式から解放されたいと思い、ジャズ・ピアニストとして即興の自由を得ようとしましたが、彼でさえやはりジャズとクラシックの中間地点は達成することができなかったでしょう。グルダが生きていたならば、メルドーの曲を聞いて「こんな音楽を演奏してみたかったのだ」ときっと言うのではないかと私は思います。彼はビル・エヴァンスの再来と言われたり、キース・ジャレットの音楽性に似ていると言われたり、彼らとよく比較されることがありますが、私見では、彼らの音楽とメルドーの音楽は全く趣きが異なり、メルドーの音楽はクラシック音楽により深く結びついた音楽であるといえるでしょう。

彼のピアノの特徴は何と言ってもグールドを連想させるような左手の自由にあります。今までのジャズ・ピアノの奏法として、右手はコード、左手はメロディーを演奏するというのが常識でしたが、彼の音楽はそうした制約を軽々と飛び越えています。右手で非常に美しいメロディー・ラインを演奏していたかと思うと、今度は左手の暗いメロディーが応答する、そして最終的に両手で同時にメロディーを奏でる。このテクニックの素晴らしさもさることながら、その音楽性は独特のスタイルで非常に説得力のあるものとなっています。このポリフォニックなメロディー同士のコントラストは、今までのジャズの即興ではあり得ないものです。彼のWebサイトにも掲載されたソロ(Video: June 2008の箇所)も聴いてみていただければと思います。年を経るごとに繊細さが増していく演奏が分かっていただけるのではないかと思います。

上述の歌曲のベースとなった曲で、アルバムPlacesの「Paris」のソロはメルドーのオリジナリティが存分に感じられるものとなっています。もう一ついい例としては、このアルバムの最終曲「Los Angeles (Reprise)」が終了して少ししてから流れるソロは圧巻です。

彼にとってジャズというジャンルを選んだのは偶然に過ぎず、現在の音楽の中で、即興を可能にしてくれる音楽がジャズだっただけのことなのかもしれません。そのため、彼は即興で生かせるモチーフはロックであろうと、ポップスであろうと、ラテンであろうと、ジャンルを問わず全て取り上げます。彼によると、「Elegiac Cycle」で表現しようとした音楽はエレジー(哀歌)であり、そこで表現されている世界観は、もはやなくなってしまったものへの哀愁、悲しみです。そして彼の音楽はそれを取り戻そうと努力していく過程を描いていると言えます。

彼は明らかにこのアルバムの中で、現代でのロマン主義の復興を目指しています。

ブラッド・メルドーはゲーテやトーマス・マンを愛読し、自身のライナーノートで、度々彼等の著作を挙げています。かつてベートーヴェンやシラーがカント哲学を学んで独自の音楽、美学の中で展開したように、ブラッド・メルドーも自身の音楽の中で、文学、哲学の世界観を展開していると言っても過言ではないでしょう。

その中でも、彼がロマン主義に関して語っている部分を下記に引用してみましょう。

「ワーズワースにしろカート・コバーンにしろ、”ロマンチック”は僕にとって、いつも後、’遅き’に満ちている。ある時には、すべてに統一性、こなごなになった統一性、があった。ロマンチックは遅れすぎていたので、着いたときにはすべてがもうバラバラだった。一つがあったところに、今はすべてが二元性だった。何も明快ではなく、いつもパラドックス、アイロニーがある。できることは、残ったかけらから音楽を作ること、その壊れ方をうたうこと、である。ロマンティシズムは、壊れた物への郷愁をほのめかしているーその主体が恋をするのは、いかにすべてが狂ってしまったかに、である。」(アルバム「Places」より)

ロマン主義哲学者シェリングの「超越論的過去(Transzendentale Vergangenheit)」を明らかに意識したようなこのコメントは、ドイツ・ロマン主義の考え方の根幹にあるものです。シェリング流の考え方に従うと、何かを意識しようとする場合、意識はそれを捉えるには常に遅すぎる、つまり捉えようとしても取りこぼしてしまい、捉えたと思ったら全くバラバラで、すでに壊れてしまっているといった考え方になります。このパラドックスに満ちた世界は、ロマン主義の特徴的な世界観と言えるでしょう。

例えば、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」の中で描かれた、すでに過去のものとなってしまった幸福な生活からの決別、そしてそれに対する郷愁が、メルドーの音楽の中でも表現されているのです。メルドーは自らの曲の名前に「Mignon’s song」、「Sehnsucht」(「ミニョンの詩」、「憧憬」という意味)という名前を付けており、ロマン主義への明らかな傾倒を示しています。

さて、メルドーのこうした音楽の傾向が非常に良く現れている例として、ソロアルバム「Live in Tokyo」の中に入っているレディオヘッドの「Paranoid Android」のカバーを聞いてみましょう。前半では、冒頭は非常に美しい、いわゆるロマンティックなメロディーから始まり、その後次第に、左手による荒々しいメロディーに移っていきます。さらに後半では、この荒々しい部分から、全く正反対に、諦めに近い美しいメロディー再度立ち上がり、それが次第に崩壊していきます。この次第に崩れさって行く姿こそが、レディオヘッドに通底するロマンティシズムであり、これがメルドーを経過して、全く独自の新しいピアノ曲として生まれ変わっています。

ここでドキュメンタリーを2つ見てみましょう。

まずは、Elegiac Cycleに入っている「Resignation」の演奏と彼のインタビューをご覧ください。

さらに、彼の即興演奏による「Goodbye Storyteller」の後で、彼のインタビューが入っているものを見てみましょう。インタビューの中でElegyについて、ロマンティシズムについての考えを述べています。

グレングールドはかつて自分自身を「救いようのないロマン主義者」と呼んだことがあります。ブラッド・メルドーも自分自身をそのように形容しています。バッハやシェーンベルクを好んで演奏し、ロマン主義音楽を完全に否定していたと思われたグールドが、その反面、ブラームスやリヒャルト・シュトラウスの曲を録音し、自身を「救いようのないロマン主義者」だと形容していたというのは非常に興味があるところです。

20世紀にシェーンベルクにより現代音楽がスタートして以来、ロマン主義音楽はいわば死刑宣告をうけてしまったわけですが、グールドのこうした発言、そして、メルドーの音楽を聴くことにより、現代におけるロマン主義音楽を再考してみていただければと思います。現代において、この「ナイーブ」な心性は「青臭い」と考えられがちですが、音楽からこの重要な部分を抜いたらどうなるでしょうか。再度「ヴィルヘルム・マイスター」を例に取ると、主人公のヴィルヘルムは青年時代非常にナイーブで、傷つきやすい性格だったのですが、広い世界を見ていく中で色々な経験を積んで成長していきます。ですが、そんな中でも常に昔の恋人のマリアーネの幻影、ミニョンといった存在が立ち現れてきます。こうしたナイーブさをいくら押さえつけようとしても抑えられないのと同様、ロマン主義的な音楽はどんなに押さえつけても常に立ち上がってくるのです。

ピアソラが伝統的なタンゴの世界から逸脱しており、タンゴファンからは当初否定されていましたが、それと同様、メルドーも伝統的なジャズからは逸脱した音楽となっています。この逸脱こそがパラダイム転換の分岐点であり、メルドーが天才である証拠でしょう。メルドーの音楽はジャズとしてではなく、クラシック音楽の一部として聴くことができると思います。是非クラシック音楽が好きな方に聴いてみていただきたいと思います。